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渡邊白泉を探訪した記事は、以前刊行の拙著『俳人探訪』(文學の森社)に掲載されていますが、今般俳句同人誌「円錐」(澤好摩編集)36号に、「白泉探訪その後」として、小文を掲載致しました。同誌は、澤氏(03−3645−0038)より入手できます。 全文は以下の通りです。 「白泉探訪」その後 栗林 浩 以前、「白泉探訪」(*1)を書いたとき、渡邊白泉の俳句そのものよりも彼の私的な部分について書きすぎたきらいがないでもなかった。その点、真摯な評論家・研究者が読まれた場合、違和感を感じられたかも知れない。一方、彼の人間味が分り、膨らみができて面白かった、と言って下さる読者も多い。幸い、拙著がきっかけとなり、沼津では、彼を顕彰しようとの動きが芽生えつゝある。 1、岡山県から沼津へ 渡邊白泉は、昭和十五年五月、治安維持法違反の嫌疑により検挙され、同九月、起訴猶予になったものの執筆禁止を言い渡されて釈放された。戦後、昭和二十三年三月、古俳句を一緒に勉強していた阿部青鞋の招きに応じ、妻子ともども岡山県の英田郡巨勢村に移住した。冬は冷えが厳しい山間の村であったらしい。そこで教職につき、左の句を詠んでいる。 つめたよと妻に言はるゝ手足かな 『瑞蛇集』 まんじゆしやげ昔おいらん泣きました 後句は、岡山での彼の哀しい想いを詠ったものだろう。この句が先日テレビの俳句番組の「俳句の風景」に出た。背景一面に妖艶な曼珠沙華の野が映っていた。沼津のある人がこの番組を観て感動し、身近な俳人のことをもっと知ろう、と新聞に書いている(*2)。 余談だが、この句はフランスのガリマール社が出した『HAIKU』という本の中に仏語訳されて、左記の句とともに載っている。 夏の海水兵ひとり紛失す 白泉は岡山在住の頃のことを後に奉職した「沼津市立沼津高等学校」の記念誌(*3)に書いている。 ・・・自分は六三制の実施とともに俄かに集められたものすごい数の教師たちのひとりとなった。東京の自宅を三十万円で売って、岡山の山間の小部落に住み、せっせと川釣りに凝っていたある日、近隣の町の教育事務所勤務という紳士が訪ねて来た。鮒針に糸をつけるのに夢中になっている私に「町の女学校の教師になってくれ」という。暫く呆気に取られていたが、あまり熱心なので、釣道具をかたえに置いて座りなおし、丁重に断った。教育者とは、博学多識でなければならないし、道徳的にも模範的人物でなければならない。おまけに、できない生徒や始末のわるい子の面倒も見てやる寛容性と根気が必要で、一種崇高な者でなければ勤まらない「聖職」だと信じていた。紳士は二時間ばかりして帰って行ったが、その後、三日にあげず通ってきた。女学校の校長も、村長までもやって来た。部落の青年を集めて俳句の話や、素封家に頼んで図書館を作ることや、若いひとの恋愛成就のために真夜中に出かけていってマムシに襲われたりしていた私も、ついに根負けという形になって、六三先生となった・・・ それから三年後、白泉は三島に現れる。そこで高校に勤めていたのだが、「棒にも箸にもかからない教師であったことを告白せざるを得ない」と書いている。心にひとすじの燃え立つものを蔵しながら、漫然と日を送る情けない状態で、そのまま朽ち腐ってゆくような気がした。想い起こすと、身震いするような寒気を覚えるのであった。 軒に旗梅に鶯僕に酒 その頃の句である。酒好きでもあった。 そして、降って湧いたように沼津の「石内直太郎」校長という名前を耳にし、彼に会い、憧れ、その沼津市立高校に勤務したのである。白泉の記述では、この出会いの場面が傑作なのだが、校長への敬愛の念に関する記述を含めて、紙幅の都合で省略する。ただ、彼が心酔した石内校長が亡くなったときの追悼句だけを掲げよう。『瑞蛇集』にある(以下同じ)。 稲妻に立つや石内直太郎 2、晩年の句 白泉は田方郡韮山町(現在伊豆の国市)に住んだ。米どころで、田圃が山裾まで広がっている。 たゞ恋し青田の果ての石切場 その後、白泉は急に句を詠まなくなった。突然のように詠めなくなったのだ。身の細胞がはらはらと落ちてゆくような苦痛を味わった、という。そして昭和三十九年、左の一句が突然脳裏に湧いて来て、それから昭和四十四年(五十六歳)の急逝まで、句を作り続けるのである。 極月の夜の風鈴責めさいなむ 没後、沼津市立高校の書類金庫の中から発見された遺稿から、いくつか拾ってみよう。 一平に燈の入るころやさゝめ雪 蓋のない冬空底のないバケツ 松の花かくれてきみと暮らす夢 桐一葉落ちて心に横たはる 気の狂つた馬になりたい枯野だつた 行雁の僕を見てゆく一羽かな おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら 葛の花くらく死にたく死にがたく 色淡き植田もありぬ田方郡 「一平」は、彼がよく通った沼津の飲み屋の名前である。前述のとおり地元では今、白泉の業績顕彰の話が持ち上がっているのだが、それは同じ職場の後輩職員が中心になっている。彼らの話では、白泉は倒れた夜も「一平」で飲んでいたのではなかろうかと言うのである。その夜は上田五千石の句集への鑑賞文を書いていて晩くなったのだろうと、私は思っていたのだが、彼らの言うとおりかも知れない。彼の社会科の授業は面白く、生徒に人気があった。麻雀が強くて評判だったし、パチンコも好きだった。人間性豊かなひとだった。その「一平」も今はもうない。 温暖な沼津でも雪がちらつくのだろう。地にいる自分を底のないバケツだと言う。〈松の花〉の「きみと暮す夢」とは、岡山時代のなにかを思い出しているのだろうか。〈桐一葉〉〈気の狂った〉〈行雁の〉はどれも心の底のわだかまりを詠い、〈おらはこの〉で自分を「尻尾のとれた蜥蜴」だと卑下する。しかし、その思いは必ずしも陰鬱ではない。その理由は後述する。 彼が住んだ田方郡を何度も訪れたことのある私は、その都度、四季折々の一面の田の美しさに見とれたのだった。揺れる心情とは別に、自然を平凡に詠んで見たくなる彼の気持が分るのである。社会風刺の効いた無季俳句はもう詠まなかった。 駄洒落めいた句を詠んで愉しんでいた観もある。たとえば〈湧く風よ山羊のメケメケ蚊のドドンパ〉や、次句もその範疇に入るが、少し主知主義的である。 手製のジヤム汽笛のポオや田舎菊 白泉の次男渡邊勝さんのご自宅を訪ねたとき、壁にこの句が掛かっていた。勝さんが「父はポーやジャムのことも知ってまして、遊び心で詠んだんでしょう」と語ってくれた。ポーは汽笛だけでなく、エドガー・アラン・ポーのことであり、ジャムはフランシス・ジャムである。素朴な白い小花をたくさんつける田舎菊が効いている。白泉の知られざる一面であろう。 3、韻律論 白泉の職場後輩諸氏から戴いた資料(*4)に彼の俳句韻律論が載っている。俳句に用いる言葉の母音が読者に与える感じを分析している。要約すると、 アの音を多用すると、明るく開放的で力強い響きの句となる。例としては、 荒海や佐渡に横たふ天の川(芭蕉) イの音は微細・隠微で静かな内省的効果となる。例は、 石山の石より白し秋の風(芭蕉) ウの音は不安・暗鬱・抑圧的となる。例は、 春寒やぶつかり歩く盲犬(鬼城) エの音は不安定な音韻を作り、最も難しい音である。 エ音多用の成功例は無いとまで言う。 オの音は、ア音と共通で壮重・雄渾となる。 炎天の遠き帆やわがこころの帆(誓子) 新興俳句の雄がこのような地道な研究をしていたのは驚きである。特高に虐められて、実作を控え、やむなく行なった研究が彼の財産となったようだ。 白泉のこの論を彼自身の句に適用してみよう。既掲の句について、母音の数を数えてみたが、エ音が特異的に少ない。彼が言うように、エ音を使いこなすのは難しいようだ。 ア音多用=明るい句は〈気の狂った馬〉と〈色淡き植田〉の二句で、七回も出てくる。気の狂うことは明るいことではないのだが、音感からは明るいのだ。 イ音多用=内省的な句は〈一平に〉であった。この飲み屋にこころを預けていたのだろうか。 ウ音多用=不安の句は〈極月の風鈴〉である。これは肯ける。 オ音多用=壮重な句は〈桐一葉〉であった。オ音が七回、内省のイ音が五回である。〈おらはこの〉もオ音七回だが、ア音が五回使われており、意外に明るさを示していて、じめじめした卑下の句ではなかったのだ。 なるほどと思うのは、〈松の花〉と〈葛の花〉の二句である。不安を示すウ音と明るさを示すア音があい半ばしており、彼の複雑な気持を音で示しているのだ。 自句を推敲する際、ある種のムードを言外に醸し出したいとき、彼の韻律論を参考にして母音を選ぶことも句作技法として面白いかも知れない、と思った。 *1 「白泉探訪」(「俳句界」平成十七年六月号)、および『俳人探訪』文學の森社刊) *2 成田真洞、沼津朝日(平成十九年九月二十九日) *3 「沼津市立沼津高等学校」創立二十周年記念誌(昭和四十一年) *4 同校「創立五十周年記念誌」(平成八年十月) |
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