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地震学者としても知られていた寺田寅彦は、関東大震災のすぐあと神奈川県の秦野市を視察した。丘陵の一部が陥没し、湖となったのである。「震生湖」と名づけられて、寅彦の句碑がある。 山さけて成しける池やみずすまし 七月のある暑い日、私はここへでかけてみた。周囲一キロほどの池で、鴨が数十羽。数人の釣り人がルアーを投げていた。水馬もいたが、蜻蛉が早くも姿をあらわしていた。蝉はまだ賑やかではなかった。句碑の裏に回ってみると、「昭和三十年九月一日、秦野市」とあり、書は学習院大学の教授で、寅彦と同じ夏目漱石門下生であった小宮豊隆である。九月一日といえは、関東大震災(大正十二年)の日である。寅彦の警句(作者については異論もあるが・・・)として知られている 天災は忘れたころにやってくる を思い出す。彼のことを少し調べてみた。 寅彦は、科学者であるばかりでなく、短編小説家として薮柑子、随筆家としては吉村冬彦の名前を持っている。子規―漱石につらなる俳人でもあった。 こんなエピソードがある。熊本の第五高等学校の学生のころ、夏目漱石の英語の試験に落ちてしまった友人に代わって、 「なんとか卒業させてやって下さい。地元の素封家からの仕送りが途絶えるのです」 などの口実で、先生たちに嘆願する役目が寅彦にまわってきた。 ある日、漱石邸を訪れた寅彦は、本来の嘆願もそこそこに、「俳句とはなんですか」と漱石の歓心を買うような質問をした。もちろん、一大関心事であったのである。これが寅彦の俳句へのきっかけになったそうだ。 寅彦の小文や句は子規に激励され、漱石にももちろんたいそう可愛がられた。漱石の「我輩は猫である」や「三四郎」にでてくる科学者は彼がモデルである。 寅彦は「ホトトギス」や松根東洋城の「渋柿」に写生文や巻頭言を書いたが、そのなかから興味ある文章を引いてみよう。 「『三から五ひくといくつになる』と聞いてみると、小学一年生は『零になる』と答える。中学生がそばで笑っている。3―5=―2という『規約』の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。しかし3―5=0という約束から出発した数学も可能かもしれない。しかしそれは代数ではない。物事は約束から始まる。俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。のみならず、それは立派な詩でもありうる。しかし、それは、もう決して俳句ではない」(大正十年九月、渋柿) 「ルノアルの絵が好きな男がいた。その男がある女に恋をした。その女は、他人の眼からは、どうしても美人とは思われないような女であったが、どこかしら、ルノアルの描くあるタイプの女と似たところはあったのだそうである。俳句をやらない人には、到底解することのできない自然界や人間界の美しさがあるであろうと思うが、このことと、ルノアルの女の話とは少し関係があるように思われる」(大正十三年三月、渋柿) もうひとつ引用したいのだが、長いので要約してみる。 「日常生活の世界と詩歌の世界はガラス一枚で仕切られている。このガラスは曇っていることもあるが、いつも小さな穴がひとつ開いていて、その穴を通って二つの世界を行き来することができる。始終行き来すると、穴は大きくなるが、しばらく出入りしないと小さくなる。この穴の存在に気がついている人でも、肥りすぎていて通れない人もいる。貧乏をしたり、病気になって、痩せてはじめて通れるようになる人もいる。きわめて稀に、天の焔を取ってきてこの境界のガラスをすっかり熔かしてしまう人もいる」(大正九年五月、渋柿) この「稀な人」というのは、岡本太郎や寺山修司のような人を言うのであろう。あらゆる自然科学分野や映画・音楽・絵画・文学等々に興味を示し、研究し、一家言を持つ寺田寅彦にとっては、このガラスの壁はいつも透明清明・往来自在であって、さっぱり壁の役目はなさなかったに違いない。 寅彦には「俳諧の本質的概論」「俳句の形式と其進化」「子規の追憶」や虚子や漱石に関する小文があり、芭蕉をもよく研究している。ところが自身の俳句については、まとまったものがないらしい。岩波の「寺田寅彦全集」全三十巻の十二巻目にそれらしきものがあるといえばあるが、これ以外に「書簡集」「日記」などに散らばっているようである。十二巻目に載っている二百弱の句から、次の句を選んだ。鑑賞はみなさんにお任せしよう。 菜の花や東へ下る白拍子 木菟の赤い頭巾をかぶりたる 蟷螂の乱を好むにしもあらず 秋風や眼を病む妻が洗髪 名月や糸瓜の腹の片光り |
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