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修善寺温泉の新井旅館は文人画人がよく泊まったことで知られているが、川端龍子も毎年訪れる客の一人だった。そればかりでなく龍子は修禅寺の檀家でもあった。以前、修禅寺の宝物殿を見学したとき、龍子による龍の天井画があったのを思い出す。島根の足立美術館には紅葉の紅鮮やかな水面に鴛を描いた「愛染」や、サイパンの戦士へ捧げる「獻華」なる牡丹が眩いほどであったのも覚えている。大田区には龍子の記念館がある。 龍子が俳句を嗜んでいたということを以前知ったが、このことは異母弟の川端茅舎との血の繋がりを連想させてくれる。少し調べてみよう。 龍子は和歌山に生れた。父信吉は紀州藩の下級武士小坂家から呉服屋の川端家に入婿したのであった。商才のない信吉は呉服屋を潰したあと、病院経営者であった叔父を訪ねて上京し、その病院で働いた。二度目の妻はそこの看護婦塚畑ゆきであり、ふたりの間に茅舎が生れた。龍子とは十二も歳が離れている。父信吉は、書画彫刻に優れ俳句を嗜んだ風流人であり、この血が龍子茅舎兄弟に流れて花開いたといえる。茅舎は母が看護婦であったことから、医者を志したが、一高の受験に失敗し絵画に転向。しかし結局は俳人の道を歩くことになる。一方、兄の龍子は洋画家としてスタートしたが、ボストン美術館の「平治物語絵巻(三条殿夜討の巻)」に衝撃を受け、日本画に転向した。その後「金閣炎上」など多くの傑作を遺し、文化勲章を授与されるのである。「金閣炎上」に描かれている紅蓮の焔は、見るものに焔の熱射を感じさせる。画家としての目で詠んだ句を一つ掲げよう。 光琳の斯く見し梅のかく咲けり 画家龍子と俳人龍子の同時表出は、蛇笏が大正六年に「雲母」を出したとき、その表紙を龍子と岸田劉生が担当したところに顕れていようか。また、俳句に興味を持っていた龍子が、後年奥の細道を辿ったことは、肯けることであり、そう驚くことではない。しかし、七十歳になろうとする龍子が、その場その場でスケッチをしつつ、句も詠みながら、五度に亘って出かけてようやく踏破したということは、たんなる画題探訪の旅ではなく、句行脚にも喜びを見出していたからに他ならない。さらに、西国三十三観音・坂東三十三観音札所を打ち上げている。 龍子の四国遍路のスケッチ(草描)と句は『詠んで描いて・四国遍路』として小学館から出版されているが、句行脚で知られている黒田杏子は、同書のなかで、こう述べている。 「龍子という大芸術家が発心をして、強靭な意志により、風景画制作への新境地の開拓をはかり、とりわけ「草描」と呼ばれる建築物を中心として作品に大きな実りを得たことを知り、身も心も震えるほどの感動をおぼえた。また、「ホトトギス」の同人でもあった画人龍子の即吟は印象鮮明でイヤ味がない。なによりもその現場に身を置いてその札所へのあいさつがこめられているので、明快で親しみやすい」 同書の約二百三十句から私が選んだのは次のとおりである。 十月の桜たまはる札所かな (第九番法輪寺) ぬくとさの礎石に残る秋の寺 (第十五番国分寺) 釣鐘の無き鐘楼や花の雨 (第二十八番大日寺) 葉桜に御詠歌の節よく揃ひ (第二十九番国分寺) 菜の花に道一筋の札所かな (同右) 街角を蝶がまがれば札所なり (第三十番安楽寺) 道塞ぐ牛にお遍路南無大師 (第三十二番禅師峰寺) 秋草に近道のある札所かな (第六十五番三角寺) 自らを画家ではなく画人と呼んだ龍子は、床の間芸術に対して「会場芸術」を唱え、壮大豪放な絵を多く制作しているが、一方で、この「四国遍路」に見られるような小品をも描き、親しみある作品に仕上げている。 修善寺の新井旅館にもどるが、ここの扁額は龍子によるものである。そのほかに、登録文化財天平大浴堂(設計は安田靫彦)を画題とした「ゆあみ」と池の鯉を描いた「魚紋」を完成させている。玄関池まわりの意匠設計も彼の仕事であった。 この地を愛した龍子は、修禅寺の檀家となり、龍の画を寄贈したことは冒頭のとおりであるが、早死にした弟茅舎(四十一歳)のために墓や句碑を修禅寺墓地に建てている。墓碑には「青露院茅舎居士」とあり、句碑は ひろひろと露曼陀羅の芭蕉かな (茅舎) である。 龍子は八十一歳で逝去した。伊予の番外の寺に句碑が遺されている。 紫に石鎚立ちて花芒 (完) |
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