柿本多映ー永遠の童女、その作品と人

柿本多映さんは現代俳句協会賞をもらった実力俳句作家である。彼女の句を読み、来し方をしらべ、かつ、お住まいの大津は三井寺を訪ね、いろいろ伺った。
柿本さんの作品と人を、「遊牧」(塩野谷仁代表)に数回にわたって連載する予定であるが、一回目が12月に出た(平成24年12月号)ので、ここに一回目をアップする。次回目以降にもご興味のおありの方は、「遊牧」にご連絡下さい。



永遠の童女
 柿本多映、その人と俳句                                 栗林 浩

一、柿本多映の俳句
 柿本多映は、昭和三年生まれ、今年(平成二十四年)八十四歳である。その俳句作品も立居振舞いも、年齢を感じさせない。取材の宿坊に案内してもらう時、先を歩いていた彼女は、竹の結界柵をひょいと跨いだ。
 多映は、昭和六十三年度、第三十五回現代俳句協会賞を受賞している。金子皆子(金子兜太夫人)と同時で、奇しくも女流が二人だった。女流にこだわれば、その四年前には渋谷道、翌年には池田澄子、四年あとには寺井谷子がもらっている。「草苑」の桂信子主宰ほかに薦められて提出した五十句が厳しい選考を経て、受賞に結びついたのであるが、その作品の一部を掲げよう。

  鳥帰る近江に白き皿重ね
  ゆふべから耳成山へ吹く穂絮
  鬼灯にくちびる厚くしてゐたり
  人体に蝶のあつまる涅槃かな
  暗がりをよろこぶ魂や魂祭
  深秋の猫をあつめて病んでゐる
  また春や免れがたく菫咲き
  誰れ彼れの背中のみゆる昼花火
  杉戸引きてより一面の菊の景
  この村の気配の見えぬ祭かな

 第一句。作者は琵琶湖のそばに住んでいる。「白い皿」は何だろうか。判然としないのだが、もちろん作者は分っている。読者は、何の暗喩だろうと考え、作者のイメージに近づこうとする。読者には、その過程の楽しさが残る。多映の句には、この手法が多い。並んだ句を読んで行くと、このような句に出遭って、立ち止まる。
 第三句。くちびるを厚くするという身体感覚表現に惹かれる。口中に鬼灯を転がすまでの過程を甦らせてもくれる。
 第四句目。多映はいつも蝶へのオマージュを抱いている。「人体」の意味の解釈で句の方向が変る。まず、「人体」が作者を含む人間生者一般だと考えよう。人に蝶が集まってくると、その場はあたかも煩悩を脱した境地=涅槃のようになる、という如何にも幸せな句である。一方、涅槃という言葉から、「人体」が死者を表わすとも考えられなくはない。入寂した者には蝶が何処からともなく集まって来て、そこを涅槃の境地にしてくれる。蝶は花にのみ集まるのではなく、死者にも集まってくれるのである。
 七句目。〈また春や免れがたく菫咲き〉は、悲喜こもごもの日常の雑事のはてに、気がついたらまた春が来ていた。自然の力は巨大だと感じながらも、菫の咲く春はうれしい季節であるという一般の常識に少し抵抗しつつ、「免れがたく」という屈折感のある表現をしたところがこの句の眼目である。
 最後の句。〈この村の気配の見えぬ祭かな〉。楽しく懐かしいはずの村祭。もうすぐの筈なのだが、その気配がない。いや、もう祭の期間になっているのかも知れない。過疎の村なのか、当然感じられるべき雰囲気がない、その空疎感を書いている。多映の句には予定調和を崩そうとするものがある。

時期が前後するが、関西にいる自分の俳句の力が、全国レベルのどの辺りなのかを知りたいと思った多映は、高柳重信の「俳句研究五十句競作」に応募している。昭和五十六年以降三年続け、佳作二席を二度得た。これが自信につながり、前述の現代俳句協会賞に繋がるのである。昭和五十八年の作品を抽いてみる。なお、この時の第一席入選者は、画家でもある糸大八であった。

 尾が見え隠れ梅林の夕まぐれ
 指ずまふの指を愛しむ春夕べ
 蟻の穴大きく見ゆる午後三時
 蜩よ後頭を野に忘れ来て
 父恋の空へくちなは抛りけり
 棗の実ひとさし指も古りにけり

 第一句目。何の尾なのかをあえて言わない。読者の想像、いや創造に任せている。俳句は全てを言い切らないのが宜しいようだ。
 二句目。指相撲の相手は高柳重信だった。男にしては柔かい指だった。文学者らしく、温かかった、という。この後すぐ、重信は亡くなった。
 三句目。多映は蟻の穴に興味があるようだ。あとでも、〈蟻の巣に水入れてゆく他人かな〉という傑作がある(『白體』)。
最後の句。〈棗の実ひとさし指も古りにけり〉。「棗の実」は砂糖漬けや乾燥させたものが売られている。棗の実をつまんでいる指を見ながらであろうか、思えば人差し指は、よく遣う指であったことに気がつくのである。素直な感受をそのまま表現した句。

 早いもので、現代俳句協会賞受賞から四半世紀経った。それまで、実に多くの俳句作品を発表しているが、柿本多映は、いつも自分の代表句がどれであるかを決めかねている。ひと様が自然に決めて下さるのが代表句だという。発表したら、その後は読者のものだという感覚がある。ましてや、深い思いが籠められたと思える作品も、時としてうつろう。ごく最近の柿本多映は、次のような句に、最も深く自分が投影されていると信じている。出典は、伊藤眠編集発行の「雲」第五十巻記念号(平成二十四年六月刊行)である。

  魂招や応へなきもの地に溢れ      
夜は夜の足音を消すさくらかな
母の恋しと榛の木は蛇を垂らし
八月の馬来て我を促しぬ
広辞苑ひらきて薔薇を見るでもなく
ががんぼの脚がグラスを離れない
仮面あつまる穂絮あつまる我が真昼
凍蝶にカーテンコール響くなり
二月三月葬式饅頭いくつ食べた
老人を裏返しては梅真白

第一句。「魂招」は「たまおぎ」と読むが、一般には、お盆に祖先の霊を招く秋の季語。この句は、杜甫の詩に因んでいるそうだが、村を出て行って生死不明となった人や、ここで亡くなった人々を呼び戻すために、赤い旗を立て、篝火を焚いた。東日本大震災のことが心中にあるのだが、被災者を励まそうなどということよりも、どうしようもない自分の気持ちを救うために書いた、と多映はいう。あとで触れるが、この句は多映が琵琶湖の畔の名刹園城寺★→おんじょうじ★(通称三井寺★→みいでら★)の育ちであることを知ると、感興が一入である。
三句目までは、作者の立居地が同じであるように見える。三井寺は、その昔から比べると、激減したとはいえ広大な寺領を有し、昼なお暗い大木の杜が数多くの塔頭、墓所を抱えている。最後から二句目も同じ環境での句であろう。厳寒期である二月三月に人を送ることが多いのだ。
 最後の句は、身内の介護に励む姿を想像させる。「老人を裏返す」というごく物理的なぶっきらぼうな表現が、かえってことの重さを訴えていよう。「梅真白」が切ない。
 柿本が思いを載せた句を、もう少し掲げるなら、

とある日に生まれていまは椿餅
補陀落や春はゆらりと馬でゆく
魂魄はスカイツリーにゐるらしい
まがふことなき闇ありき闇に水

であろう。〈まがふことなき闇ありき闇に水〉は無季句、香川県直島の家プロジェクトの「南寺」での句である。
……民家風の建物の中が真っ暗だった。しばらく目をならして、ようやくモノがぼんやりと浮かび上がって来る。係員に「長方形の出口がぼんやり見えて来るはずですから、そこから出て下さい」と言われて進んだ。そのとき何が頼りになったか。「水だったのです。それが何故出てきたのか分らない。やはり命の水でしょうか。あの句は『水』が心の中に出てきてようやく出来上がったのです」……
と柿本は語る。
 彼女には、単純な写生句はない。花鳥諷詠もない。感受を一度かならず自分に引き付けて、見たモノの形をカオスの状態に崩して、そこから再生してくる確かなモノと感受を書くのである。書くのであって、詠うのではない。
 多映の最近作を一句掲げよう(「俳句界」平成二十三年八月号)。

目印は小さな靴です鷗さん

「鴎」は季語かなどと、詮索する必要はない(現代俳句協会編の季語集では新年・冬に入っている)。そのまま詠めばメルヘンの世界だ。だが、ひょっとすると、これは東日本大震災の幼い行方不明者への鎮魂の句なのかも知れない。いや、多映は、俳句が被災者の鎮魂になる、などというおこがましい考えは持っていない。だが、何かが彼女をして書かしめたことは確かだ。必然的な感情の吐露であり、ひと様を救うというよりも、自らの心の「救い」にするための句だったのではなかろうか。

二、生い立ち
 (三井寺)
 柿本多映(旧姓福家★→ふけ★妙子)は昭和三年滋賀県大津市の三井寺に生まれた。三井寺(寺門派)には永い歴史がある。比叡山(山門派)との熾烈な抗争、森羅三郎義光など源氏との親密な関係、源頼政と以仁王の平家討伐の拠点であったこと、鎌倉三代将軍源実朝を暗殺した甥の公暁が修行していたこと、豊臣秀吉による廃絶命令と復活、徳川や毛利の支援、明治維新による縮小、などなどの歴史を経て生き残って来た。暗い歴史の影が多いのだが、「三井の晩鐘」で知られるような歌枕・俳枕としても著名である。芭蕉や蕪村の句も残されている。
  三井寺の門敲かばやけふの月     芭蕉
  三井寺や日は午にせまる若楓     蕪村
父は、天台寺門宗管長で、かつ総本山園城寺(三井寺)の第百六十一代長吏★→ちょうり★であった福家守明★→しゅみょう★大僧正である。管長とは天台寺門宗のトップの位であり、長吏とは三井寺の長の役職名である。父守明の入寂(昭和二十七年)後の長吏には、多映の次兄福家俊明★→しんみょう★が選出され、俊明逝去(平成二十一年)の後は、三兄福家英明★→えいみょう★が第百六十三代の長吏に選ばれている。長兄は大学生のときに亡くなっている。
 
(多映の原風景)
寺ではあったのだが、意外に近代的な雰囲気であった、と多映はいう。決して閉塞的ではなかった。文化的な最高の文物に囲まれ、訪れる客も多く、自由闊達な子供時代だった。三人の兄たちとは一緒に広大な寺域を駆け回ってよく遊んだものだ。猪も出てきた。
「普通のお寺ですと本堂があって、仏さんがあって、檀家がつくのですが、ここは本山で密教の寺でしてね。モダンな物が沢山ありました。たとえば硯ですね、唐のものでしょう。桃山・江戸の当時としては非常にモダンなものでした。硯は一つの例ですが、他にもあります。この部屋の正面の狩野派の壁画も豪華で、新傾向を示すものでしょう。これは、重要文化財の紙本金地着色『松に瀧図』(狩野山楽筆)ですが、決して写実的でなく、描き手の空想というか、感得したものが強調されています。いま坐って話し合っているこの建物、光浄院客殿も寺らしくないでしょう。書院風の国宝ですが、室町末期から興った様式で、少しずつ変化しながら江戸初期に完成した様式ですよね。ここのは、桃山時代のものでして、一六〇一年建立とされています。左手の付け書院が典型的です。醍醐寺とここのが有名ですね。ですから私の環境には、建築美ほか美的なものが多かったのです。子供のころは、この大広間で兄たちと鬼ごっこをして遊んだものです。浄土を模擬したような、ここの庭の池に盥を浮かべて乗って遊びました……父が不在の時だけでしたけどね。お客さまがいらっしゃる時は、その池に面した広縁に籐椅子を並べて涼んで戴きました。大正モダン的でもありましたね。ここの金堂の周りは太い円柱でできています。西洋風に言えば、いわゆるエンタシスです。普通のお寺の感覚とはちょっと違いました。境内には山や谷があり、小暗い路傍には銀龍草(幽霊草)などがありました。小さいときこれを見つけて飛び上がりました。お化けか幽霊かって。驚いたらすぐ母のところへ走って行って報告するのが常でした。幽霊みたいな花が咲いているって。そのときの驚いた自分の姿・顔を今でも覚えています。そのあたりは不思議な場所だったんです。大木の枝から得体の知れない寒天状の塊が降ってきて、地面に転がっていました。触りたいのですが気持が悪かったので、母のところへ息せき切って駆けつけ、訊いたら、『あれは魂が落ちているんです。だから触ってはいけません』と言われました。ああ、ひとの魂ってこんなものかなあって思いました。それらが私のこころに焼きついているんですね。いま通ってきた仁王門からの道は、昔は暗くて怖かったんです。近在に身元不明の死者が出ると、そこを通って遺体を寺領の奥の墓地に運んで仮埋葬してあげるんです。身元が分ると、掘り返して大八車に乗せて返すんです。その大八車とすれ違ったのですが、供の者が『眼をつぶりなさい』と言って、私の手を引いて走るんですが、私はしっかり目を見開いて見ていました。不思議に平気だったんですね。これがひとの『死』なんだって。裏山には『つちのこ』という……ここでは『御八寸』と言いますが、短い蛇が出たんですよ。胴回りが八寸なんです。草刈していた女の人たちが鎌を抛りだして逃げ下りてきました。後で、兄たちと探検に行ったりして、天真爛漫、自由自在でしたね」
柿本の作品の幾つかは、このような環境を知ると、成る程と納得できる。未知なるものへの研ぎ澄まされた知覚と、異界のものかと思える不気味さへの視覚が入り混じっているのである。この特有な感受が、のち赤尾兜子との師弟の縁を深めさせるのであろう。しかし、兜子門下の期間は短かった。

(戦前・戦後)
 多映は、京都の女子専門学校(現京都女子大)に四年で編入した。英文学科を志望したが、敵国言語のため、学科が閉鎖となってしまっていたので、中国語科を選んだ。大阪外語大から京大に移って中国語を専攻した赤尾兜子との縁を惹起させてくれる。多映の次兄も、慶應から戻って京大の中国語科に入り、兜子と同期だった。なんとも不思議な因縁である。
戦時中、多映は京都市内の島津製作所に動員され、そこで米軍の空襲を受けた。京都は爆撃されなかったというのが一般認識なのだが、そうではなかった。女専も攻撃され、犠牲者が出た。戦後、進駐軍が来て調べていたが、その事実は長いこと伏せられていた。艦載機が機銃掃射しながら飛んで来たのを覚えている。三井寺の寺領には、明治以来九十九年間の期限つき土地貸与契約により、軍が施設を造っていた。それが後、少年飛行学校となっていて、ここもロケット弾で攻撃された。琵琶湖側から敵機が来るかも知れないと怖れていたのだが、なんと山側からも急降下して来て恐ろしかった。多映らは、いまは国宝になっている光浄院客殿で、蒲団を被ってじっと耐えていた。
 戦前の平時には、戦後もそうだったが、テニスを楽しんだ。軟式だが、多映は強かった。国体にも五回ほど出ている。その姿が、毎日新聞社のある記者の目に止まり、気に入られたらしい。本人よりも先に福家の父母や兄などが攻略され、結婚ということになった。夫は慶應出で柿本克良といった。多映の兄も慶應出で、すぐに説得されてしまったらしい。
それから新聞社務めの夫について、東京、高松、尾道、徳島などを巡り、子に恵まれたが、それまで楽しんでいた短歌(歌誌は「箜篌★→くごう★」、金沢の尾山篤二郎主宰)はきっぱり止めていた。
 その少し前に、「明星」系統の女学校の先生に習っていたことがある。その中に保健の美人の先生がいて、従軍看護婦となってニューブリテン島へ行ったのだが、そこですぐに戦死してしまった。その追悼短歌会を、父の許しを得て、光浄院客殿で開いたことがある。その後、ほかの短歌会にも興味を持ったが、夫の勤務の関係で止めてしまった。
「夫からは、テニスも短歌もやらせてあげる、と言われ、信じていましたが、現実はそうではありませんでした。世間知らずでした」
と多映は笑う。
高松は長かった。そのころ紫雲丸事件で大変だったことを覚えている。夫の任地、高松、尾道、徳島はすべて教育熱心な土地であり、やり過ぎではなかろうかと思うほど親より学校が熱心だった。転勤が多く、息子には気の毒だった。徳島の校長は、高校二年の「息子さんを預かるから、このままここから大学受験させてはどうか」と勧められた。だが、子供には、いつも父親の後ろ姿を見ながら育って欲しいと思い、連れて廻った、という。
 
(俳句へのきっかけ)
再び詩歌の世界に戻ったのは二十年以上も後のことで、しかも短歌ではなく、俳句であった。子育てが終ってずいぶん後のことで、息子が大学を卒業するころになって、友人の勧めで、西武百貨店大津俳句教室開講を機に始めたのである。そこには、赤尾兜子の代役で「渦」の主要同人だった井口洋平が来て教えていた。それが兜子との縁となった。多映の夫柿本克良は赤尾兜子と同じ職場(毎日新聞社)の先輩であって、兜子に頼まれて大津地区の俳句教室の開設に協力したのだったが、多映が参加したのはそれが直接の機縁ではなく、まったくの偶然であった。  
俳句といえば、多映の父が連句をやっていて、むかしその場に多映も墨を摺る役として控えていたことがあるが、「天・地・人」とか言って、なんと年寄じみた遊びかと思っていた。近くに園城寺事務所があって、そこの門跡寺の塔頭が義仲寺(芭蕉の墓がある)であり、父は住職らとそこで楽しんでいたという。
 西武の教室に多映が入ったと知った兜子は、「直接教えるから大阪の毎日教室にも来なさい」といい、兄には「妹さんは預かるから、まかして下さい」言ったという。そのころ兜子はすでに、俳句は今までの「前衛」のままではいけない、と思い始めていた。兜子の没後は、桂信子に大阪の毎日教室で指導を受けた。桂は作者の個性を尊重する姿勢が強く、自由に作らせてくれたようだ。
 
(人麻呂の末裔説騒動)
 いっとき、柿本家が柿本人麻呂の末裔であるかの如き噂が立った。ことの起こりは、作家の五木寛之の夫人の姉で某大学教授だった人が多映をよく知っていて、柿本家は人麻呂の裔だと信じたのが始まりらしい。五木もそれに感化され、信じ込んでいた。一方、五木には多映の兄とのテレビ対談の計画があった。三井寺を訪れて撮影したのだが、その場に多映も同席するように言われ、借りてきた猫のように控えていた。それが放映されたとき、なんとテロップに、多映が柿本人麻呂の末裔だと書かれているではないか。多映は、「あんな恥かしいことはなかった」と笑う。三井寺はたしかに、天智・弘文(大友皇子)・天武の勅願寺として、西暦六八六年に建立されている。この三帝の産湯の井戸(霊泉)が境内にあったため、三井寺と呼ばれ始めた。人麻呂も天武天皇の時代に活躍したのだが、なにせ確かな資料がない。柿本家には、人麻呂に関する文献が沢山あった。先祖が石見の国に赴いたとの資料もあったらしい、がしかし、いかにも科学的根拠に乏しい。五木寛之の思い込みはロマンがあって楽しいのだが、柿本家も多映自身もまったく信じていない。大津からほど近い、比良の奥にも柿本姓が見られる、という。


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