昭和・平成を詠んで③ 橋爪鶴麿さんに聞(前編)

 平成27年8・9月から「昭和・平成を詠んで」というシリーズを企画し、「小熊座」のご理解を戴き、連載し始めました。一回目は小原啄葉さんで、すでにこのブログにもアップ致しました。
 今回は、橋爪鶴麿さんを取材し、「小熊座」の平成27年10・11月号に掲載して戴きましたので、その前半をアップいたします。後半についてもご興味のおありの方は、小熊座にご連絡下さい。

 このシリーズの目的は、国民の戦中・戦後の苦労や悲劇を風化させずに伝え、以って安保法制が通過した現在、日本が戦争に雪崩れ込まないようにとの願いを伝えようとするものであります。
 小原さん同様、橋爪さんの戦時中のご苦労などをお読み戴ければ幸いであります。



画像




(引用)
永年俳句を研鑽されてこられた橋爪鶴麿さんを訪ね、「昭和・平成を詠んで」をテーマに、お話を伺った。まず氏の生い立ちと、俳句との係わりから始めよう。

一、生い立ち
橋爪 昭和二年三月に生まれました。先祖は紀州藩の鶴を飼育する綱差★→つなさし★の家柄でして、将軍吉宗の江戸城入城に従って江戸に入り、屋敷を与えられ、大森で鶴の飼育にあたりました。明治維新の幕府瓦解により廃業しましたが、曽祖父は綱差役にかわって、明治政府から神官役を命じられました。私の「鶴麿」の名は父が祖先の生業を留めるべく名づけたのだと聞いています。橋爪家の墓地は現在も大森にあり、鶴の供養碑も建てられてあります。でも、詳しいことは分かりません。父の資料が長持ちに一杯あったのですが、戦災で焼けてしまいました。読んでおけば良かったと思っています。
――筆者注 鶴麿さんのお話に「鷹匠」「狩場」「鶴御成」などの言葉が出てきたのだが、少し解説しよう。
江戸幕府の初期の将軍家康や家光は狩を好み、将軍の権威の象徴としての鷹狩をよく開いた。六代将軍   綱吉が「生類憐れみの令」を敷いたことで鷹狩は中断されたが、八代将軍吉宗はこれを復活。特に紀州     や伊勢では鷹狩が盛んであったらしい。
 鷹は普通自分よりも大きな獲物は襲わないが、訓練により鶴をも襲うようになる。その訓練の役が「鷹匠」   (世襲)であり、幕府の重役の下できちんとした階層管理の元にあった。将軍が狩場にお成りになり、鷹を放ち、獲物の鶴を仕留める際、その鶴を飼育しておくのが綱差であり、鶴麿さんの祖先はその役だった。鶴は京都の天皇に送られる。これが「鶴御成」である。

二、俳句との係わり
橋爪 俳句の師は中島斌雄先生でした。中島先生に会うことを奨めたのは、旧制中学と慶応義塾大学の先輩に当る櫛見充男氏でして、慶大俳句研究会の発足句会の帰路でした。櫛見氏は府立七中時代に中島先生に国語を習った一人だったのです。昭和二十一年、終戦直後のことでした。
 その旬日後に「麦」の前身の「塔」の句会に出席しましたが、当日の先生の句は、
   赤ん坊手に柔かし虹仰ぐ    斌雄
でして、戦後の焦土の中での風景ながら、温かい人間愛とやさしさに満ちたその傾向に大きく魅了されました。「麦」の創刊に参加したのは、この句との運命的な出会いの結果だと言ってよいと思います。
 昭和二十二、三年年頃、私が慶大俳句研究会でもっとも影響を受けたのは楠本憲吉氏です。氏は昭和二十三年慶應の法学部政治科を卒後、二十五年には文学部仏文科に入っています。「なだ万」が家業ですが、日野草城らを擁し俳壇で活躍しましたね。一方、早稲田出身ですが富澤赤黄男の印象も鮮明でした。一度、憲吉氏に赤黄男たちの句会へ連れて行ってもらったことがあるんです。当時の空気の中で、新しい傾向に憧れたんですね。
――筆者注 鶴麿さんの第一句集『ゴンドラの月』の跋文を、楠本憲吉が書いている。憲吉は鶴麿さんに初めて会った時の印象を「少年クラブの表紙絵のような童顔で、顔面一杯に笑みを湛え、健康優良児のごとき厚い胸を張って『橋爪鶴麿』です、と名乗った」とある。
橋爪 その後、昭和二十二年に「麦」同人となり、編集を担当しました。昭和二十五年には、慶応大学を卒業し、鐘淵紡績に入社、富山県高岡に勤務。爾来、静岡・大垣・群馬・大阪と転勤を重ねました。昭和四十一年には、関連会社の役員として帰京。その後、京都府長岡京市・東京・長野などに住みました。鐘紡のアパレル関係事業に係わり、ファッシヨン業界の激烈で賑やかな環境を楽しみました。 制作から販売までを手掛け、会社の合併や買収・整理など幅広い経験を持ちました。昭和六十二年、鐘紡を退社。昭和六十三年、中島斌雄先生逝去。平成六年、現代俳句協会常任幹事就任、「現代俳句」編集部長。平成十六年、「麦」の会会長と続きます。
――筆者注 ここで師の中島斌雄に触れねばなるまい。「俳句」昭和六十三年六月号が斌雄の追悼号であっ  た。鶴麿さんを含む多くの俳人たちが斌雄の秀句を上げている。
金子兜太は 置手紙西日濃き匙載せて去る
         陽炎にどうとたふれて疲れけり
などを掲げ、「西日濃き匙」が「ひどく新鮮だった」といい、「氏は現実主義を生涯にわたって貫いていた、と私は見ている。社会性の展開に与し、前衛の活動を支援したのも、早見えのお先走りではなく、氏が求める現実主義の路線に適っていたからである。新風を真風たらしめんとしていたのだと思う」と賛辞を書いた。
中村苑子は 子へ買ふ焼栗★→マロン★夜寒は夜の女らも
を掲げ、その知性で包んだ社会性のある作品を「俳論も進歩的でありながら綿密・おだやかな中庸性の理論で読者の信頼を得ていた」という。
原子公平は 麦を蒔く風強ければ躬を曲げて
酒井弘司は 爆音や乾きて剛★→つよ★き麦の禾★→のぎ★
橋爪鶴麿は 酒のまぬ生涯の谿夕ざくら
をそれぞれ上げている。
――筆者注 斌雄の門下生だった対馬康子さんが、結社「街」の研究会で中島斌雄を論じた際、斌雄のいう「胸中山水」について、次のように紹介していた。
「『胸中山水』は、現実のデフォルメを第一歩とするが、これがさらに進むと、現実に触発されることなく、現実・実在の対象とは無関係に、無から有へ…の方向で作者により文字通り創造されるようになる。すなわち、作者が作者の胸中の思いを、さながらに形象化する過程が、それである」「自己の内面は無限の宇宙のようにいろいろな体験を重ねることにより日々革新されてゆく。物のひかりが見えるためには、作者の内面に胸中山水が形成されていなくてはならない。それがあって初めて、所思の表明が可能となる。むしろ所思を表明せざるを得なくなるような胸中を燃え立たせるような感偶は、胸中山水の中に潜んでいるのである」
――筆者注 鶴麿さんは斌雄の「実体への肉薄」に示される描写の深化に畏敬の念をもったと思われる。今考えると初期に斌雄が主張していた「実体への肉薄」ということは「胸中山水」と同じ意味ではなかろうかと、鶴麿さんは思っておられるようだ。つまり、対象を一度自分の腹に取り込んで咀嚼してから表現過程に移るのだ、という。この辺りをいつかきちんと書いておくべきかも知れない、と仰っている。
 一方で鶴麿さんは、人生派としての加藤楸邨の句に揺曳する、生きることへの問い掛けの句風にものめり込んで行った。
橋爪 当時私は、熱心に「寒雷」を読んでいました。楸邨の次のような句に刺激を受けたんです。 
     鰯雲人に告ぐべきことならず
     蟇誰かものいへ声かぎり
     木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
     冬嶺に縋りあきらめざる径曲り曲る
     冬の浅間は胸を張れよとちちのごと
「俳句界」平成二十六年四月号に、楸邨の〈冬嶺に縋りあきらめざる径曲り曲る〉について、短い鑑賞文を書きましたが、この句に、己を偽らず本当の声で力強く気持を打ち出していることに共感しました。私が、俳句でものが言えると感じさせてくれたのは勿論、その後も俳句を続けさせたのは、師斌雄への思慕と、楸邨の作品の魅力の双方が大きかったと思うのです。
――筆者注 しかし鶴麿さんは「寒雷」には入らなかった。とはいえ、斌雄の社会性を帯びた実体への肉薄と楸 邨の人間探究派的持ち味を重ね持った鶴麿さんの句柄は、ここに源泉があるように思える。
橋爪 私が俳句を創りはじめた頃、斌雄先生から教わった先ず第一番は、「実体への肉薄」という、対象の深奥にじかに接するような実感があり、触れれば切れるような真実性を持つ作品ということで、二番目には、作者の態度として、自分自身の生きている姿をさながらに詠い、「生きるたしかめ」として作品を創り出すべきだ、ということにあったように思います。
 前者は単純な「写生」「花鳥諷詠」という虚子の称えた作り方から脱して、もっと対象の真実に迫ろうということで、季節の言葉に寄掛かるようなことを止めて、自分の目で確かめ、むしろその対象のもっている表層のものでなく、奥深いところまで見ることによって感応するところのものを把握しなさい、ということだと思います。
 また後者は、「何故俳句を創るのか」にかかわる問題ですが、自己表現の手段として俳句を選んだ者としては、当然のことと受取れますが、つい忘れがちになるための警告とも考えられます。
―――ところで斌雄先生の句でお好きなのは?
橋爪 斌雄先生を語る上で落してならないのは、昭和四十三年に北軽井沢に「月土山房」を開いてから、同地での生活と思索の結果が生れた次の作品です。
   涸れ川を鹿が横ぎる書架のうら  (昭和四七年)
   鯉裂いて取りだす遠い茜雲    (昭和五三年)
   鱒となり夜明け身を透く水となり (同)
ここにあるのは、現実世界を起点としながら、新しい自然秩序への思いがあり、過去の多くの経験を通して、より深く再構築を果そうとした作品です。

三、俳句への思い入れ、俳句とは何か
橋爪 いろいろな人からの影響もありますが、現在の俳句の在り方を、「心の発露を社会の中で訴え、自由な拡がりの中から、生きる確かめを十七音にしてゆく」という方向へ、自分の志向をむかわしめました。この背景の一つには、卒業論文に選んだジャン・ジャック・ルソーの「人間不平等起源論」の影があると見ていいと思います。つまり世の中は不公平なものであり、不条理なことが往々にしてある。そのことを意識した態度で俳句作品を作るということです。

四、「現代俳句」編集長として
――俳句の世界での鶴麿さんの仕事にはどんなものが?
橋爪 いやあ、あまり自慢できるものはないね。でも、かなり入れ込んで出したのが、「現代俳句」平成九年七月号(現代俳句協会創立五十周年記念特大号)ですね。「戦後五十年を振り返る」として、佐藤鬼房・原子公平・阿部完市・川名大さんらに話してもらい、司会を森田緑郎さん、編集は私が受け持ちました。
一方、「二十一世紀の俳句を考える」という座談会も同誌に載せました。安西篤・須藤徹・大井恒行さんの座談会を松林尚志さんが司会し、これも私が編集しました。
――読ませて頂きました。現代俳句の歴史にもなっていますね。ここでお話し下さった俳人のうち、物故された方は、佐藤鬼房・原子公平・阿部完市・須藤徹の各氏ですね。若くして亡くなった方もいて、残念でした。 
 また、不勉強でしたが「現代俳句」の前身として「俳句芸術」が昭和二十三年に発刊されていたこととか、中村眞一郎のエッセイなど、興味深かったです。
橋爪 もう一つあげれば、この頃は、俳句の評論がもっと「起れ!」という不満感を持っていましてね………特に写生を金科玉条にしてきた伝統俳句に対して、見えないものも、胸の内も吐露した俳句も、これは前衛俳句に限りませんが、それらをもっと大きく捉えて、「表現主義的な傾向の俳句」というくくりで、その傾向の俳句が将来どうなるのかを書いて欲しいと思っていましてね、それで江里昭彦さんに依頼しました。それが氏の「近代に対する不機嫌な身振り―表現主義的な傾向の俳句について―」という論文になり、結果的に評論賞に輝きました。
――ナチスが表現主義を徹底的に叩いたんですね。私も、絵画の世界で、写実主義だけでなく、表現主義への流れが大きくなって行くのを見ていて、俳句の世界でも当然の流れだと思っていました。江里さんは、「『表現主義的な傾向の俳句』はしばし過剰なゆがみを伴うことがあるにしても、また、成果よりも失敗の事例を多く撒き散らすことがあるにしても、近代が設定した社会秩序に向けた、意識せざる、反抗と拒否と非適応の身振りなのである。してみると、〈効率〉と〈健康〉を奉じるナチスが、表現主義美術を『退廃芸術』として排斥したのもしごくもっともなことに思える。忘れてならないのは、狂信的な愛国者ばかりか秩序を信頼するごくふつうの市民が多くナチスを支持したという事実である」と書かれていますね。市民の態度がナチスを容認どころか、絶対支持したのですね。今の日本の様相に似ているというと言いすぎですかね?    (つづく)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック