高岡修句集『水の蝶』十句鑑賞

 高岡さんの第六句集『水の蝶』(平成二十七年十二月二十日、ジャプラン刊行)を鑑賞する機会を得た。表紙の青い蝶がモワレ模様の光を帯びて美しい。
 作品は、詩的ひらめきに満ちており、読者に相当な鑑賞力を要求する。だから、全体を読み通して、平明な句に感動を覚え、結果的に、筆者の能力に見合った句のみを選んだようだ。しかし、十句鑑賞のつもりが、それを越えた。


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010 郷愁へ大きく曲がる春の川
 分かりやすい句である。地平を俯瞰できる場所に立って、光り輝く春の川を眺めている。川は曲がりくねって、ゆったりと流れている。その先に私の故郷がある。故郷を「郷愁」と言い換えて詩情が出た。

012 水を見る前世入水の我がいて
 作者は死んだ積りになっている。入水したのだ。その水をじっと見つめている。この水が私を死に至らしめたのだ。かと言って、恨み辛みの一言も言っていない。不思議な句。

017 月光の立棺として摩天楼
 見立ての句。ニューヨークでも上海でも、いやドバイでもいい。月に照らされた摩天楼は、命のない無機質構造物として輝いている。「立棺」とは良く言ったものだ。作者は、このような巨大人工物に価値を置かない人かも知れない。いや、バルセロナの未だ建造中のサグラダファミリア教会なら、価値を認めるのだろうか?

033 澄みゆくは哀しからずや秋の水
「秋の水」は澄み切ったもの。それが「哀しい」という。濁っていた方が良いのだろうか? 澄んだ水は底に沈んだ物を見せてくれる。それが嫌いなのだろうか? この感覚は、分かるような気がする。

036 水墜ちて瀧燦然と立ちあがる
 瀧をじっと見ていると、水が立ちのぼって行くような錯覚を覚える。その感覚を素直に書いた。分かる句である。

037 数匹は黄泉より来たる夕ぼたる
 沢山の螢を見た。ふと、それぞれの出自に思いを巡らせた。中には、あの世から暫しこの世に遊びに来た螢もいるのかも知れない、と思った。ことさら蒼白く光っているのがそうかも知れない。

039 質量を少し離れて秋の蝶
 物理学の世界では、重量と「質量」は厳密には違う。物理学者は注意深く二つの言葉を
使い分ける。地球上の重量一キロは、質量も一キロだが、月面での重量はもっと軽い。そんな科学的なことを言ってもこの句の解釈には役に立たないが、本質的に持っている質量を離れて、ふらふらと秋の蝶が飛ぶ。重量ではなく質量とはよく言ったものだ。

043 すすき原置き忘れたる縄電車
 この句を読んで、筆者は「置き忘られし」ではなかろうかと思った。だが、この「縄電車」の縄は、誰かが忘れたものではなく、作者自身が置き忘れたのだと分かった。その方が深い。

055 夢みざる眼なら抉る雪の果て
 夢は「眼」で見るものではない。だから、こう詠われると、必然的にこの人の「眼」は「抉り」取られることになる。句意は、どうしても夢を見させて欲しいのだ、という悲壮なまでの訴えなのだろう。

066 八月の死者は鼻梁をかがやかす
「八月の死者」というと、どうしても戦争犠牲者を思う。その一人一人は鼻筋のよく通った、凛とした若者ばかりなんだ、という主張。心情は分かる。

086 死者の胸の春愁を翔つ水の蝶
 この句集の後半は三・一一に係わる句が集められている。とすると、この句の「死者」は津波の犠牲者である。その胸には春愁があるという。若干、詩的に書きすぎたと思うが、この句集の表題が「水の蝶」であるので、高岡さんの深い情念が籠められているのであろう。

095 沖に湧く手毬唄なら毬をつく
 これも津波の犠牲者に捧げる句。沖から津波が襲ってきたのだが、その沖に手毬唄が湧くならば、それに合わせて私も手鞠をつきましょう、という鎮魂・抒情一杯の句。犠牲者には、当然、幼子もいた。切ない。

十句の積りが十二句となった。筆者の鑑賞能力の至らなさを露呈したようだが、いつか、高岡さんのひらめきに満ちた全句を解読したいものである。


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