藤野武句集『火蛾』十句鑑賞

 藤野氏が第二句集『火蛾』を上梓された。角川書店、平成二十八年一月二十五日刊行。氏は金子兜太の「海程」入会後、塩野谷仁代表の「遊牧」の創刊に参加。一九九二年には第三十八回角川俳句賞を得ている。筆者も「遊牧」の吟行などで、氏とは何度か一緒させて戴いている。
 句集は一九九四年からの二十一年間の作品からなり、二〇一一年の東日本大震災の句を含んでいる。奥様は三陸地方のご出身。



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 この句集のテーマは、極論を恐れずに言えば、「鎮魂」であろう。東日本大震災の被災者へのそれもあるが、亡き父母への鎮魂、さらに人が老いることへの慨嘆である。
 もう一つ読後感を言えば、藤野さんが常に意識しているのは、反予定調和ということではなかろうか。そのために、多少リズムを歪ませてさえも、言葉を丁寧に選んで書いている。
 筆者が選んだ十句を鑑賞しよう。全句を読んでみて、やや難解と思われるものも、正直言って多かった。だから、リズムが良く、解釈がしやすい作品にばかり拘って、選んでしまったかも知れない。したがって,以下の鑑賞は決して藤野俳句の全貌を語ったことにはならないであろう。

015 日翳れば急に悲しき葬の列
 平明な句である。照っていた太陽が雲に隠れると、急に「葬の列」の寂しさが増す。言い得ている。

020 母老いて夢に余りし大でまり
 若かった頃、母にも大きな「夢」があったに違いない。だが、老いた母の今のそれは「大でまり」の花の大きさに比して、如何にも小さいようである。

036 春の雲浅く腰かけている父よ
「浅く腰かける」ということはどういう心的な状況を言うのであろうか。きっと、気が落ち着かずに、いつも何かに気を配っている状況なのであろう。父がそうだった。父への労りが感じられる。

054 牛膝老い母はあやまってばかり
「老いたる母は」いつも謝っている。誤ることで周囲との平穏を保っているのだろうか。着物の裾に「いのこづち」がくっ付いている。一人でどこか野原を散歩していたのかも知れない。寂寥感あり。

060 童女へと戻り行く老母(はは)花うぐい
 記憶が確かでなくなっている母。「童女」に返って行くようだ。「花うぐい」がうまい。伝承派的な句。

071 ほうけし母の狭霧のごとき正気かな
呆けたと思われる母だが、ときどき記憶が正確に蘇ってくる。しかしそれは片時の霧の晴れ間のようである。前句と同じ感覚である。

084 春の雲かな入れ歯なき老母(はは)の口
「入れ歯なき」を「入れ歯を外した」という意味に解した。その様は、春の柔かい雲が口にあるような感じだ。この句は、筆者なら〈入れ歯なき老母の口は春の雲〉としてしまうのだが、藤野さんはそうしない。「春の雲かな」の打ち出しにより句意を強くしている。

084 花のごとく壊れし老母の手が泣けり
 老母の手の動きが小刻みに震えるのであろう。泣いているようにも見える。花のように美しかった母である。「花のごとく壊れし」に強い叙情性を感じる。これも充分に伝承派的。

103 旧道は稲の匂いの亡父(ちち)がいる
 人通りの少ない「旧道」に稲の匂いを感じた。亡き父が佇んでいるように思えた。藤野さんには「稲の匂い」や、他の句では〈012 疲れ寝る子のほっぺたの麦くさき〉があり、稲や麦の匂いにリアリテイを感じさせてくれる。

181 追憶の何処かに痛み冬桜
 以上の作品を読み、さらに東日本大震災の鎮魂の作品を読むと、まさに「追憶」には「痛み」があるものだと気付かされる。「痛み」は「悼む」に通じようか?

 実は筆者は意図的に「母恋」とも思われる作品ばかりを選んでしまった感がある。所謂、伝承派的なモチーフの作品である。筆者の共感がそこに強くあったからだ。しかし、氏の本来の指向はそこにはない。次の自選句で示されるように、もっと現代的な俳句を指向しておられる。

  盆踊り山背に噎せる牛と人
  遠雷や野の重心のうつりゆく
  瓜食む音逆縁といい真白といい
  鮎を突く水底優しき光を突く
  風に鴎の白きバランス老いゆく秋
  秩父巡礼この星にすみれ草という星
  霧湧きぬ地粉をこねるときにかな
  襟足を剃る雪形は消えつつあり
  夜振火よほんとうに皆いなくなる
  静かな湾の遠花火地は記憶せり
  花のように野火燃ゆ考古学少年に
  流灯よ土には浅く浸み入る雨
  百足虫梁にたましいもまた老いたるか
  榠樝実る木屑のように時はこぼれ
  燧石の火は生れて消ゆ上り鮎


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