俳人・有馬朗人さんに聞く(前編)

 現在「小熊座」に「昭和・平成を詠んで」として、先輩俳人を取材し聞き取りましたことを掲載しております。時代背景がその俳人の作品にどう現れているかをお聞きするものです。
 今回は、有馬朗人先生を訪ね、苦労話を伺いました。前編のみここに掲載致します。ご興味のおありの方は、子熊座」へお問い合わせ下さい。この次のお客様には黛執先生を、その次は大串章先生、さらに池田澄子さんと続きます。



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以下引用

――物理学者・政治家・俳人と多面的な活躍をされておられる有馬朗人さんを、学校法人根津育英会武蔵学園の学園長室に訪ね、俳句人としてのご活躍、世界遺産化の狙い、物理と俳句の世界の違い(あるいは共通点)、大学改革や政治家としての成果などなど、興味ある諸点について伺った。

一、幼少から苦学生時代まで
――まず、ご幼少の頃のお話からお伺いします。俳人一家のご家庭にお生れで、僅か十五歳で「ホトトギス」に入選されたと聞きました。
有馬 父も母も俳句が好きで「ホトトギス」に入っていました。母は「玉藻」にも入っていました。私の浜松時代です。富安風生先生が三河のご出身でして、敗戦直後のある日、浜松で句会をやって下さった。そう、ちょうど田植の季節でしたよ。母は、ずっと後に青木月斗の「同人」にも関係し、編集長を経て「同人」の主宰になりました。この浜松の句会で、私は五句作って出しました。三句は取られませんでしたが、二句が特選でした。中学生が来たというので、先生も喜んで取って下さったのかもね。それを、改めて「若葉」と「ホトトギス」に投句しましたら、風生先生が
  蓮一つ魁咲ける田を植うる
を、虚子先生が
  雨雲のいゆき烈しき田を植うる
を入選としてくれました。昭和二十一年のことで、この頃の雑誌はうすっぺらで、一回に三句ほどしか投句できなかったと思います。両誌とも、選は厳しかったです。
――以来、虚子先生との接点は多かったのでしょうか?
有馬 いえいえ、雑誌「ホトトギス」を通して勉強はしましたが、虚子先生とは三回しかお会いしてないんです。一回目が銚子でした。父が地元の俳人たちと一緒になって虚子先生をお迎えし、句会を催したのですが、会場は、今でも犬吠崎にある「暁鶏館」でした。その句会に出たのですが、なにしろ小学一年です。つまんなくて眠ってしまいました。二回目が、「ホトトギス」に入選した翌年昭和二十二年でした。東京駅のそばの日本工業倶楽部で俳句のお話がありまして、それに出ましたら、風生先生もおられ、風生先生が虚子先生に「雨雲の」の句のことを紹介してくれました。良く覚えておられまして、そのとき虚子先生に声を掛けて戴きました。三回目も、工業倶楽部だったと思います。虚子先生のご逝去の直後、私はアメリカへ行ってしまいますから、虚子先生とは浅い縁でした。
 実は、父が橋本から浜松の軍需工場に移っていたのですが、昭和二十一年一月に結核で亡くなってしまいます。母は定職がありませんし、以来、経済的に随分と困窮しました。私は、中学四修でこの武蔵高校へ入りましたが、毎日がアルバイトで暮れました。ですから、時間的にも経済的にも句会には自由には出られませんでした。深見けん二さんなどは裕福でしたから、虚子邸へ行って俳句をされていましたが、羨ましいと思いました。結社はその後、山口青邨先生の「夏草」一本にするんですが、昭和二十五年に東大工学部の青邨先生を訪ねまして、そうしたら、「これから『東大ホトトギス会』があるから来なさい」って。私が入ると家族は無料になるんです。ですから母も「夏草」です。「ホトトギス」にも出そうと思ったんだが、雑誌は一誌買うのがやっとだったので、残念ながら止めました。
――戦後すぐの頃は、一般国民はみな貧しかったし、食糧難でもありましたね。今ですと学生のアルバイトは多種に及びますが、当時ですと家庭教師ですか?
有馬 ええ、そうです。国中、食糧難でしたから、外食なんか考えられなかった。配給券を持ってないとダメだったりね。そういう状況だったし、その上貧乏だったし、弁当もって行くのが精一杯。池袋は焼け野原だった頃です。
私の場合は旧制中学校四年生のころから家庭教師でした。浜松第一中学校(現在、浜松北高校)の本間先生という方が、大変心配して下さって、ある家の住み込みの家庭教師の口を紹介してくれたんです。そこに母も一緒に住まわせて貰いました。戦災で家も焼かれていましたしね。温かく迎えて下さいました。学校から帰ると、その家の男の子と一緒に勉強するんです。高等学校に入ったらすぐまた家庭教師。浜松の級友のご両親が心配して、名産のお茶を送ってくれるんですよ。「これを売って生活の足しにしなさい」ってね。その級友は加藤博久さんというんですが、読売の大阪の会長さんに出世された方です。それから、進駐軍の筋から薬を分けてもらって、それを売ったりしました。特に、ペニシリンが高価でした。何せ、昭和二十二、三年の頃ですからね。
――先生の多岐に渡るお仕事を考えますと、時間の使い方が見事なんだろうなって感心するんですが、それは若い頃のアルバイトなどから学んだんでしょうか?
有馬 さあ、どうかな。私は癇癪もちで短気でしたよ。でも家庭教師をやっている裡にだいぶ納まりました。実は、家庭教師をクビになったことがあるんですよ。「オイ、バカ」ってやってしまってね(大笑い)。
………今日は色んな秘話が聴けそうですね(笑い)。
有馬 それでね、学校が三時頃に終ると、それから家庭教師のハシゴです。夏休みは市役所のDDT散布のアルバイトもしました。進駐軍が日本の衛生状態が悪いからって、消毒薬を自治体に送ってくるんです。蚊の退治や便所の消毒です。ですから、あそこのあの家の便所を消毒したなあ、なんて覚えているんです。それが終ったら家庭教師です。高校の二年生の夏は農家に勤めていたね。畦を作ったりしました。作物を育てるのが好きだったからね。肉体労働ですよ。終ったらまた家庭教師。さすが三年生の十月以降は大学の入試準備をしました。約半年の準備でよく東大に入れたよね(笑い)。東大に入ってからも、さすが午前中はやらなかったけれど、アルバイトで土日も無かったです。
――先生がご健康でいらっしゃるのは、若い頃のこのような厳しいアルバイト生活が要因だったのでしょうか?
有馬 いや、戦中の勤労動員に入る前の中学の体育テストで鍛えられたのが大きいと思いますよ。私は、もともとカリエスで左足を切断されそうになったんです。結核性でした。それが幸い直りまして、小学校の六年生の頃は一〇〇メートルの選手になって、静岡県西部大会に出たほどでした。小学校と中学校での身体の訓練、鍛え方のせいだと思いますよ。戦前でしたから、鍛え方も厳しかったんです。浜松に行って訊くと分かるけど「有馬って速いのがいた」って言われますよ。そう言ってくれる幼友達がいまでもいます。他所の学校の運動会にも出て走ったものですよ。

物理・俳句以外に手を出したのは失敗!
――何でも良くお出来になる。凄いですね。
有馬 いやいや、それが失敗に繫がるんです。結局、何ひとつ成就しない。物理も俳句もね(笑い)。随分いろんな賞を貰ったけど。物理学ももうひとつ確立できてないし、俳句もたいしたことないし(笑い)、行政の方も………まあ、有能な助っ人がいますから、大臣なんて誰でもできるからね(笑い)。
――成就できなかったというのは、物理ですとノーベル賞ですね。普通の人間から見たら、有馬先生の超人的活力はどうなっているんだって、不思議ですよ。
有馬 余計なことをしたことがいけなかった。大学の総長なんかやらないで、学問だけやっていればね………。それが失敗だったね。

海外詠はむづかしくない
――そろそろ海外のこともお伺いしたいのですが、お忙しくされていて、海外でも盛んに俳句を詠んでおられますが、海外の俳句は作りづらいことはありませんか?
有馬 私の場合は生活に密着した俳句なんで、作りづらいことはなかったね。ただ、難しさを感ずるのは赤道直下ですね。虚子先生が熱帯季語を作りましたが、これが難しい。棲んでいれば雨期と乾期がありますが、季語の選び方が難しい。ヨーロッパの場合は、北でも、南でも問題ないね。中国は一番作り易い。ブラジルやチリに行くと、南北がひっくり返るだけで、なんと言うことはない。
――私はアルゼンチンに割に長くいたのですが、北風が熱く、太陽が北の空を通り、クリスマスが真夏だったので、違和感がありました。
有馬 そうね、まあ、ひっくり返せばいいんです。赤道直下でも、シンガポールでも何度か行くと慣れてきて、「朝涼し」とか良い季語が使えます。ですから、海外だから作りづらかったということはないね。むしろ、海外ではアルバイトしなくて良かったから、沢山作りましたよ。結婚したての頃は、田無に東大の原子核研究所があって、そこの助手になるんですが、祖母、母と家内と子供をかかえて、給料が安く、月一万円くらいで、大変だった。アメリカでは、シカゴのアルゴンヌ研究所に就職したんですが、給料が月八〇〇ドルだった。ドル=三六〇円の時代ですよ。円換算すると、日本にいる時の三十倍くらいになるんです。日本へ戻ってくると三十分の一になる。帰国後は、さすが家庭教師のアルバイトはしなかったが、翻訳の仕事は、実に沢山やりました。特に特許についての翻訳をやりました。
最初、赴任する時の旅費はフルブライトから出ました。その後日本との飛行機賃は自弁が多かったのですが、何とかやりくりできました。最初の渡米は、生まれたばかりの長男と妻と三人で、氷川丸に乗って二週間でシアトルです。それから鉄道で三日ほどかけてシカゴ。ですから横浜の山下公園の氷川丸を見ると懐かしいです。帰りはもう氷川丸は引退していましたから、サンタフェ鉄道でロスまで行って、貨客船相模丸に乗り帰ってきました。

短詩系の世界遺産化
――そろそろ俳句の世界遺産化についてお伺いします。日本の俳人たちはみな期待しているのですが、如何ですか、登録までのマイルストーンは?
有馬 いやあ、時間がかかりますよ。十年くらいはかかりそうです。文科省が窓口ですが、申請が二百五十件ほどもあるそうです。年に五から十件くらい登録されるとしても、相当かかります。幸い、私が総長だった時の広報の担当教授だった方、青柳(正規氏、東大名誉教授)さんといいますが、イタリア考古学・美術史に造詣の深い方で、いま文化庁の長官です。いろいろ相談に乗ってくれています。俳句については理解をして頂いていますが、短歌をどうするかを考えねばならない。俳句の世界は大体前向きで、かなり纏まっています。短歌の方々のご意見をどう集約できるかですね。
中国の漢詩(李白・杜甫らの七言絶句など)、韓国の時調(じちょう、三四三四の音節単位を三個重ねたものが中心)まで広める考えもあります。これらを一緒にしたらどうかという大構想ですね。だが問題は、漢詩・時調などは日本の俳句のように人口が多くはない。詠む人が限られる。だから、漢俳(五七五の形式に倣い、十七文字の漢字を三行に並べ、季題を入れ、韻を踏む有季定型型による新しいスタイルの詩)などが出てきた訳ですね。五言絶句など、むかしは多かったんでしょうが、今は少ない。だから、日本の俳句が中心に頑張らねばならない。
――ベルギーやスエーデンなど、海外の俳句愛好家の応援も得られそうですね。
有馬 そう。先週、国際俳句協会の講演で、EUの初代大統領であられたファン・ロンパイさんが話してくれました。去年、ベルギーでお会いした時から「ぜひ遺産にしたら」と応援してくれています。それから、スエーデンの大使だったラーシュ・ヴアリエさん、この方も賛成してくれています。むしろ、アメリカやスエーデン、ベルギー、オランダなどヨーロッパが強く賛成してくれているんです。
――国内体制は国際俳句協会が中心ですか?
有馬 むしろ俳人協会が積極的です。現代俳句協会も賛成ですね。伝統俳句協会にも協力をお願いしています。登録まで十年というのは長いように聞こえますが、言い始めてからもう三年経っています。
――この三月、朝日新聞に先生が「この問題は国内の俳人たちが団結することが必要。次に、大袈裟に言えば、漢字文化圏の短詩が共に無形世界遺産に登録されるのが最終目的。今の政治状況への憂いもこめて………」と述べておられますが、この「政治状況への憂いをこめて」の辺りを少し解説して下さいますか?
有馬 私は中国に親しい人が多いんです。中国の人と話していて、やっぱり協力してアジアの文化というものをもう少し世界に認めさせねばって思うんですよ。日本と中国で一番共通なのは、儒教もあるけど、やはり漢字文化でしょう。日本と中国の一番結び易いところは漢詩でしょう。韓国もむかし漢詩を作った。いまはあまり作らないけど、そのかわり時調がある。こういう共通事項があるんだから、世界全体の平和もいいけど、その前にまず漢字文化圏が仲良くしないとね………。
 日本人も、中国・韓国から受けた昔からの文化的な恩恵をもっと尊重し、意識すべきですね。日本人は俳句や短歌を作るけど、日本固有な要素以外に、中国や韓国の人たちが来て影響を与えてくれた部分がありますね。万葉仮名だって、もしかしたら韓国の影響かも知れない。韓国でも漢字を使って、丁度万葉仮名と同じようにして、韓国語で文章を書くことをやっていた時代があるんです。万葉の時代の前後です。これらの恩恵を感謝すべきです。日本が中国や韓国から得たことに対する恩返しをすべきです。
――日本の文化には、中国で起こり、韓国を通って伝わってきたものが多いですね。
有馬 そうですけど、中国のものが韓国を素通りしてきたのではなく、韓国で消化され、韓国流になって日本に伝わってきたものが多い。そういう例をよく分析し、韓国をきちんと評価すべきですね。中国の影響・恩恵は良く分かるんですが、韓国のこともよく理解したいですね。仏教だって、中国から来たことになっていますが、日本の僧侶が中国の仏教に影響を与えたことが中国の仏教史に出てきますか? あまりない。弘法大師も道元も出ていない。ところが韓国は違う。偉い韓国の僧侶の名が中国の仏教史に残っている。韓国は仏教も自国のものとしているんですね。素通りさせた訳ではない。そういうことをもっと知って、韓国の文化を正しく理解したいですね。李朝までは漢字文化が強かったが、最近はハングル中心になって、文化が変わってしまった。韓国の若者が漢字で書かれた自国の過去の文化遺産を理解することが大変でしょう。  (つづく)

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